つちNOTE

備忘録

21歳の私から、12歳の私に

 
ふと、小学6年生の時の記憶がよみがえった。
国語だったか、道徳だったか、なんの授業だったかは忘れてしまったけれど、小学生の私に課題が出された事がある。
 
「20歳になった自分に向けて、メッセージを書きましょう」
 
もしかしたらそれをタイムカプセルに入れる、みたいな話だったかもしれない。
けれど20歳になった私に、その手紙が届く事はなかったので、そんな話は自然消滅してしまったのだろう。
 
小学生の自分からの手紙は届かなかった。
けれど、内容は覚えている。
そのときの私が何て文章を書いたのか、私はあれから9年間経った今でも思い出す事ができるのだ。
だって私は、たった一文しか書かなかった。
 
「わたしは今でも、『やればなんでもできる』と思えていますか」
 
小学生の私はそう書いた。
20歳になった自分に向けて、そう書いた。
 
我ながらなかなか良いセリフだ、と思う。ガキのくせにいい啖呵を切りやがる。
だから覚えていたのだけれど。
 
私は昔から、言葉に関してはこだわりがあった。
未来の自分に向けて、なんてロマンチックな課題に対しては、多少、キザな言い回しもするだろう。
 
「今でも、やればできると思えているか」
小学生の私のこの言葉は、明らかに、喧嘩を売ってきている。挑発的だ。
あのころの私は、20歳の自分にたいして、不安を覚えていた。
小学生の自分より、20歳の自分が「劣化」してしまうことを心配していたのだ。
 
つまり、「なんでもできなくなってしまう」ことを心配していた。
 
あのときの私は、「やろうと思えばなんでもできる」と思っていた。
自分の未来は無限大で、なりたいものにはなんでもなれると思っていたし、できない事はないと思っていた。
 
それを子供の幻想だ、と言い切る事は、私はしない。
 
 
 
なぜなら、今の私だって、『やればなんでもできる』と思っているからだ!
 
その喧嘩を買ってやる。
私が12歳の自分より劣っているとでも? 成長していないとでも?
確実に、12歳のお前より私の方が頭がいいぞこの野郎!
 
12歳のころから私はムカつく野郎だったらしい。
なんで小学生のくせして20歳の自分より優れていると思っていやがる。ふざけんな。
 
ただし、子供じみた幻想は、やはりなくなってしまった。
現実的に考えるようになってしまって、あのときほどの想像力や、無限のパワーはないかもしれない。
12歳の自分はバカみたいに無謀だったが、その無謀さは評価に値すると思っているのだ。
世間知らずだったが故の大胆さとか、挫折を知らないが故に傷つくことを恐れず何にでも挑戦できるところとか、確かに、思い返して羨むところはある。
だからと言って、今の自分を、すべて否定する気はないが。
 
今の私だって、たとえば「宇宙飛行士になる」ってことは可能だと思っている。
文系の大学に入って心理学なんぞ勉強しているが、今から勉強し直して、宇宙工学とかやってる大学に入ることは不可能じゃない。
奨学金借りるとか、あるいは一回社会人になって、お金を稼いでからもっかい大学を目指せば良い。
全然、不可能じゃない。現実的な話だ。
 
小学生の私は、そういう意味で、「なんでもできる」と思っていた。
私もそう思っている。まだ小学生とそんなに変わらないし。まだ若いし……21は若いよね?
まあ、たとえ80歳になったって大学には入れるだろう。可能性は0じゃない。
 
 
 
ただ、大人になった私は、「それをしないのはなぜか?」と考える。
なんで私は、宇宙飛行士にはならないのか?
 
答えは簡単だ。
他にもっと、やりたいことがあるから。
 
多大な時間やお金をかけて宇宙飛行士になるよりも、私にはやりたいことがある。
それよりももっと大きい夢がある。
今の私はそれを目指しているんだから、「宇宙飛行士になる」っていう寄り道はしていられない。
 
「やればなんでもできる」ってことは、「何か」はやらなきゃいけないってことだ。
夢に向かってやらなきゃいけないことが、たくさんある。
そのやらなきゃいけないことがこなせれば、できるんだ、なんでも。
 
今の自分に「できない」ことがあるってことは、「やってない」からなんだ。
そのための努力をしていない。努力が必要だと思えていない。
 
というか、努力が必要だと思えないことは、そんなにたいして「やりたい」ことじゃないんじゃないの?
今の私にとっての「宇宙飛行士」と一緒なんじゃあないの?
だったら、やらなくてもいいんじゃないの?
 
最近の私は、自分に「できない」ことが多すぎて、ずっと落ち込んでいた。
なんで落ち込んでいるのかもわからないくらいだった。
目標を見失いかけていて、自分が何をしたかったのかもわからなくなっていた。
 
「できない」自分がただ悪い。自分が悪い。
それで思考が止まっていた。
 
じゃあなんで「できない」の?
とにかくやる気が出ない。なんでやってるのかわからない。
 
 
 
なんかもう、できないならできないでいいや。
できなくても死なないわ、私。全然生きてるわ。超元気。
心臓は動いてるし、脳みそも回転してる。それだけでもう、なんかいいじゃん。
 
 
 
ただ開き直った気がする。まあいいや。
生きてるだけで丸儲け的な雑なポジティブ思考だけど、そういうの悪かねえよ。
 
今やってることが「できない」としても、私が本当になりたいものへの道が閉ざされるわけじゃない。
そう思うだけで全然、生きてられる。
希望が失われたわけじゃない。絶望じゃない。
 
12歳の自分が20歳の自分に向けて放った言葉が、21歳の自分を励ますことになるとは思っていなかった。
とにかく、目標を見失うなってことだ。生きる目的を。
 
12歳の私、ありがとう。
私はまだ、やればなんでもできるらしい。
 
 
 
 
 

方向音痴のはなし

 
どーも、トーストの下の面にジャムを塗る派閥を支持しているつちのこです。
 
わたしは方向音痴です。かなり重篤な患者であると言えましょう。
治療法があるなら知りたいものですね。
 
まず地図が読めない。文盲ならぬ地図盲です。
紙の地図はなおさらですが、グーグルマップで自分が向いている方向を示してもらっても、目的地まで音声でナビしてもらっても、方向音痴専用アプリを使っても無理です。目的地にたどり着けない。
多分そういう祟りです。前世で方向を司る神々に呪われてるよこれ。
 
出身は仙台なのですが、地元だろうがなんだろうが、全然道がわからない。
普段通っている道の、その一本向こうの知らない通りに入っただけで混乱します。
そもそもが引きこもり気質なので、外にあまりでず、知っている道が増えない。
学校の通学路以外はテリトリー外です。なんもわから〜ん。
 
高校登校初日に道に迷って遅刻したのも懐かしい。
大学入試後に道に迷っていたところ道を聞かれ、「わたしも迷ってるんです」と答えたら道を聞いてきたその人に逆に道を教えてもらったのも懐かしい。
おかげで駅までたどり着けました、ありがとう名も知らぬ受験生の方。
 
仙台というのはですね、仙台駅周辺が大変栄えているんですね。
まあそりゃわかんないよね、なにもね。知らないお店に行く時とか、友達に電話しながらナビゲートしてもらわないとたどり着けません。
わかるのはたい焼き屋さんとゲーセンの位置くらいなので、仙台を案内してと頼まれてもたい焼き食ってゲームすることしか……。
 
だいたい、北とか南とかわかるわけないだろう。
なんだ、なに見て判断してんだ、太陽か。太陽の位置か。夜は北斗七星で判断すんのか。昔の海賊かよ。無茶をいうな。
目印を探せとか言われても、そのへんにあるビルなんてみんな同じ形じゃないですか。
こう、もっと一目見てわかりやすい感じにしてもらわないと。
楳図かずおの自宅くらいわかりやすい建物をもっと建ててくださいよ。
 
 
電車もバスも乗れません。
 
電車って本当に難しい。
何行きが自宅の最寄駅を経由するのか、何十回乗っても覚えられない。
仙台駅から電車がものすごいでているから、下手したら山形だの福島だの岩手だの行っちゃうんで、超怖いです。
たまに間違った電車に乗っちゃって、一駅目で飛び降ります。
その駅で降りるひとがめちゃくちゃ少ないので、迅速に降りないとどこまでも行っちゃうんでね、すぐ降りてまたさっききた駅に向かう電車を待って、それに乗るんです。出戻りと呼んでいます。
そういう、いきあたりばったり、乗ってみりゃわかるだろテンションで生きてたんですけど、もう学びました。
今では毎回電車に乗るたびyahoo知恵袋を見て路線を確認している。
 
岩手の電車もなめちゃいけない。
乗り過ごしはまだいいんですよ。間違えて花巻に行くつもりが北上まで行っちゃった〜とか、それは引き返せばいいだけですからね。
 
花巻から盛岡に帰ろうとして間違えて、遠野まで行ったことあります。
いや、遠野駅ってなにもないのな。びっくりするよ。
電車の数もめちゃくちゃ少ないので盛岡に帰るまですごい時間がかかりました。
 
バスにもいい思い出がない。
最近で一番みじめだったのは、自転車とバスを乗り継いで目的地に行こうとした時ですね。
お金浮かせようと思って自転車で2駅分くらい走って、そこからバスに乗って目的地に行ったんです。
で、目的地のバス停の名前を聞き逃さないように集中していたら、いつのまにかバスが終点だったので降りた。
その降り立った場所は、さっきわたしが自転車で通り過ぎた駅なんですよ。
 
あれは完全にわたしの周りの時空だけ歪んでた。
 
自転車とバス使って、ぐるっと一周して戻ってきたらしいです。
なにを間違えたのか。多分乗るバスから間違えたような気がする。だって降りるべきバス停を通らなかったもん。
そのあと結局電車に乗って、もう一度さっき乗ったバス停に戻り、正しいバスに乗って目的地にたどり着きました。
すげえ遅刻したけど。お金も無駄に使ったけど。半泣きだったけど。
 
わたしは遅刻魔なんですが、方向音痴だというのも一役買っています。
方向音痴っていうのは、道も分からなければ、その道を行くのにどれだけかかるかの計算も下手くそなんですね。
わたしの場合、大抵「このくらいで着くだろう」と見積もった時間より10分くらい多くかかります。道に迷うともっとかかります。わ〜い遅刻〜。
 
神は二物を与えないっていうじゃないですか。
重度の方向音痴という十字架を背負わされているわたしは、それに見合う対価を得ていなければおかしいんですよ。
方向音痴を代償に、わたしは一体なにを手にしているんだ。
なんかものすごい才能を秘めていないと割に合わないぞ。
でも心当たりはない。奪うだけ奪いやがって。もっとこう、両手打ち鳴らすだけで金とか錬成出来るようにしてくれよ。
 
方向音痴って本当に困るんだからな!
ゲームしてても道に迷うんだからな!
RPGでダンジョンの出口がわからなくて不本意にめちゃくちゃレベルがあがっちゃうんだからな!
中ボスとギリギリの戦闘を繰り広げるのが好きなのに、不本意にレベルが上がっているせいでボコボコにしちゃうんだからな!
それなのに道がわからなくてイベント回収しきれなくてBADENDに一直線なんだからな!
 
 
とってんぱらりのぷう。
 
 
 
 

 

お笑いのはなし

どーも、「君に似てる動物はつちのこだね」と言われたことのあるつちのこです。
Twitterでつぶやこうかなと適当に書いてたら論文みたいになったので、書いたやつ膨らませて長文にしてブログに載せます。
 
 

わたしは身内ネタは嫌いだが、テンドンは好きだ。

ざっくり概念を説明すると、「身内だけで笑えるネタ」というのが身内ネタ。

漫才やコント、会話の中で、同じボケを何度か繰り返すのが「テンドン」。

この二つには、「過去面白かったことを再び思い出させて笑わせる」という共通点がある。

しかし決定的な違いは、テンドンにおいては「過去面白かったこと」というのは、そこにいる誰もがついさっき経験したことであるということだ。身内ネタは、「過去面白かったこと」は、身内でしか共有していない。だから外部の人間にとってはつまらない。しらける。何が面白いのかと正気を疑う。笑いのツボが違うのだろうかと不安になったり、自分の知らないことで彼らは笑っているのかと、ハブられているような気分になり不快だ。

身内ネタと違って、テンドンは誰でも笑える。「過去面白かったこと」も、聞いている人に自分で供給する。だから普遍的で、面白い。と、いうことになっているはずだ。

 

あるいは身内ネタはすべらない話に昇華できることがある。

「過去面白かったこと」を、それを初めて聞く人にきちんと説明できるなら、それは面白い話になるはずだ。「昔〜ということがあって、だから今また同じ〜ってことがあったから面白いんだよ」って、面白おかしく説明できればいい。それなら身内ネタじゃなくなる。しかしその説明を怠って、自分たちだけが面白ければいいと思うのであれば、つまらない話しかできないつまらない人間にしかなれないだろうね。

 

と、いう啓蒙。

もちろん自分自身に言い聞かせているんだけど、啓蒙は自分に行わなければ意味が無いからね。

身内ネタを身内以外が聞くと本当にいたたまれなくなる。

爆笑に包まれている部屋に遅れて入ってきた人、という感じ。何に笑ってるのか誰も説明してくれなくて、疎外感を覚える。すぐにでも部屋から出ていきたくなるね。

爆笑に包まれている部屋に遅れて入ってきた人に対して、何に笑ってるのか面白く説明するっていうのが、身内ネタを面白い話に昇華する方法だと思うんだ。

それができる人でありたいと思う。

ただ、部屋にばかりこもっていると、結局つまらない人になっちゃう気がする。だからわたしは身内ネタは程々にするかなぁ。

わたしはたとえ話が下手だなぁ!?

 

 

とってんぱらりのぷう。
 

 

一人称のはなし

 
どーも、前回のブログの記事を読んだ友人に「意味もなく腹が立つ」と言われたつちのこです。
 
 
一人称の話をします。
 
わたしは日常生活で一人称を結構細かく使い分けてます。とくに文字に書き起こす時には。
 
「わたし」と「私」、たまに「僕」や「俺」です。
 
「わたし」は普段使いです。
「私」は、それより公的なときに使います。
「わたし」のほうが柔らかい感じがするので、個人的に好ましく感じますね。
ひらがなが入ることによって文章全体がふんわりする。きついかんじが減る。おちゃらけるにしてもこっちのほうがいい。
「私」は少し硬い。
正式な感じがするので、冷静な印象を与えたいときなどに使います。なにかの事務連絡とか、初対面の人や目上の方とのメールなどですね。もちろん、レポートや論文を書くときにもこちらです。あとは、Twitterで「わたし」だと文字数制限に引っかかるときにも使います。
 
「僕」はへりくだっているときに使います。
そもそもの語源が「下僕」なので、かなり自分を下げている。自虐ネタのときに使いがち。
ふざけているときにしか使わないかな。
 
「俺」は、まあこれも普段使いなんですけど、もう高校の友達と会話するときしか使っていないかな。でもたまに口からこぼれてしまうときもあるし、ふざけてSNSで使うときもある。
 
 
わたしが物心ついたときの一人称は「ミー」でした。
下の名前の最初の一字が「み」なのです。親から「ミー」と呼ばれていたものですから、自分でも自分のことをそう呼んでいたんですね。
でもそれを馬鹿にされてから言わなくなりました。誰に馬鹿にされたんだったかな。近所の少し年上の男の子だったと思います。
わたしは生まれてこのかたずっとプライドが高いので、そのときはそれがめちゃくちゃ癇に障りました。その馬鹿にされる事件が確か、小学校低学年の頃だったと思います。そこから高学年になるまで、一人称を使わない時期がありました。暗黒時代です。
 
どうしていたかというと、一人称を使わずに会話する技術を磨いていました。
一人称をぼかすんですね、色々と。どうしても使わなくちゃいけないときは、多分「自分」と言っていたと思います。
わたしのなかで、「自分」はどうにも一人称というかんじがしない。代名詞なんですね、自己を指す代名詞。
いえ、別に自分という一人称は江戸時代から使われてたし、現代で使っても普通だと思います。なんかスポーツか武道やってそう、真面目そうっていう印象を受ける。
わたしにはしっくりこないというだけです。
 
そして小学校高学年から高校卒業するまで、一人称が「俺」でした。
 
小学生の頃、わたしはジェンダーで悩んでいて、女の子っぽいことをするのがとにかく嫌で嫌で仕方なかったんですね。
だから同級生が使っていた「あたし」とか「ウチ」という一人称は死んでも使いたくなかった。
そんで色々考えた結果いつのまにか「俺」になってた。いえね、言ってみてしっくりきたんでしょうね。
 
でも、家庭では「俺」を一度も使ったことがありません。
親はわたしが汚い言葉遣いをするのを嫌がったので。
だから外でしか「俺」と言わない。
内弁慶の逆ですね。それただの弁慶じゃねえか。
 
高校入学あたりから、家庭での一人称が「わたし」になりました。
そのあたりにようやく「わたし」という一人称を受け入れることができたんですね。
「あたし」じゃなくて「わたし」だったらいいぞ。語感もだが、「わたし」は社会人だったら男でも当たり前に使うからな。「わたし」は男でも女でも使えるぞ!?

「わたし」はジェンダーフリーだぁ!!

というかんじの悟りを開いたんだったような気がします。
 
そして大学に入ってからは家庭外でも「わたし」になりました。
自分でもびっくりするほどスムーズに一人称が「俺」から「わたし」に移行しましたね。全然言い間違えなかった。
むしろ最近のほうが「俺」って言い間違える。いや、言い間違いではないんだが。いや、言い間違いなのか?
 
などと昔を思い返して今と比べて、眠れない夜を乗り切っています。
 
 
とってんぱらりのぷう。

 

ブログはじめました


最近、Twitterでの文字数制限に縛られすぎて、長文が書けなくなってきているのではないかという不安に駆られます。
ちょうど中二病も加速してきていることだし、避難場所としてブログでも設けてみますか、という思いつきです。

普段考えていることを文字にするのが好きなので、たまには不特定多数の人の目に晒して黒歴史でも作ろうかと思います。


シロクマの話をしましょう。

シロクマというのは北極などの寒い地域に住んでいる白いクマです。
比較的マスコットキャラクタになんかもされることが多い動物でもありますね。
特に、夏に見ます。
涼し気な飲み物なんかを飲んで清涼感を演出しているシロクマのマスコットキャラクタ。

いやおかしいだろ、と私は言いたい。

いいか、シロクマは北極に住んでいるんだぞ。
寒いのは得意だが、暑いのは苦手だ。
なのになんでシロクマは夏のマスコットキャラクタに引っ張り出されているんだ。
だいたい見た目からしてモコモコじゃないか。白い毛がフサフサで、見るからに厚着してるぞ。どう考えても不得意な夏の世界に放り出されてシロクマも困惑してるぞ。

人間で考えてみよう。
夏にモコモコのコートを着た人を見たらどう感じる?
「うわ暑そう、大変そう」って思うじゃないですか。
冬にタンクトップ着た人を見たら「うわ寒そう、死ぬんじゃないのか」って思うだろう。

なんでシロクマにはそう思ってやれないんだよ。

なんで夏にモコモコの毛をまとったシロクマを見て涼めるんだ。
普段北極という寒い地域で活動しているシロクマが暑い場所にいたら「うわ暑そう、大変そう」と思う感覚があっておかしくないんじゃないのか!?

シロクマが夏のマスコットキャラクタという過酷な労働を強いられているのをみて動物愛護団体は動かないのかよ!?

っていうとりとめもない、クソくだらないことを考えながら、日々眠れない夜を過ごしています。
まあ私はシロクマ好きなんで、夏だろうが冬だろうがマスコットキャラクタになってるのをみると嬉しいんですけどね。

とってんぱらりのぷう。